なぜ私は支援員を続けているのか

今回はちょっと脇道にそれます。

先日、不登校の中学生と一緒に勉強していた時に聞かれました。「なんで先生は、そのお仕事を続けているんですか?」

その答えを今日は書こうと思います。

先に言いますが、長いです。

お時間ある方はお読みください。

 

そもそも、私は高校生の時、普通の先生ではなく、保健室の先生になりたいと思っていました。今ほど「支援」という感覚の無かった時代、教室に居づらくなった子どもが居られる場所は保健室しか無かったような時代でした。体の傷だけでなく、心のキズも癒してあげれるような養護教諭になりたいな、と思っていました。

で、高校生の私は、どうしたら養護教諭になれるかを調べました。養護教諭養成課程は、日本中わずか数校の大学にしかありませんでした。

しかも、我が家は経済的に余裕がなかったので、親からいくつもの制限が出されていました。私立はダメ、一人暮らしへの仕送りは無理、浪人もやめて。

という訳で、家から通える国公立大学に限定されてしまい、その中に養護教員養成課程はありませんでした。

ショックを受ける私に、当時の担任は言いました。

「なんで養護教諭になりたいんだ?大事なのはそこだろ?各学校に1人しかいない養護教諭を目指すよりも、他の肩書きで子ども達の心を救えばいいじゃないか」

あの時、あの一言が無かったら、私は全く違う道を選んでいたかもしれません。

そして私は、地元の国立大学で、普通の教員免許を取る道を選んだのでした。

 

大学卒業時、あの頃は日本中で教員の採用がほとんど無い状態でした。倍率は百倍超え。私も当然、県の採用試験には落ちました。それでもなんとか、私立高校に採用され、教壇に立ち、担任も1年目から持つことになりました。しかし、毎日毎日、授業準備と部活、校務分掌や担任雑務に追われ、生徒の気持ちに寄り添いたい気持ちはあっても、時間的な余裕は、ほとんどありませんでした。

自分自身を高める時間も無く、あの頃の私は、本当に薄っぺらな教員でした。

 

そんな私立高校での激務から逃れるため(?)私は退職・結婚・出産をして「ただのお母さん」になりました。育児は、学校の勉強のように簡単ではありませんでした。私は、育児を通じて、それまでの人生で味わったことの無い「劣等感」や「無力感」を経験したのでした。

独身だった頃の「強くて勝ち気な優等生の私」には見えなかった物が、たくさん見えてきました。

 

結婚から11年、子育てが少し落ち着いてきて外の世界に関心が湧いてきた私は、仕事を探し始めました。この仕事を選んだのは、条件面を考慮したからでした。夏休み冬休みは子供と一緒に休める、16時には家に帰って子供と過ごせる、そんな理由からでした。

 

最初に配属された学校は、やや問題の多い小学校でした。学級崩壊寸前のクラスにいきなり入らされ、子ども達をおとなしくさせなさい、という無理ゲーを命じられたこともありました。管理職がパワハラ気質だったこともあって、すぐに辞めたくなりました。

そんなある日のことでした。

3年生の教室で最近乱暴な言動が増えていたA君が、作文を書く時間なのに席を離れてフラフラしていました。声を掛けても聞かないし、他の子にちょっかいを出すので、彼と手を繋いで、「一緒に行こう」と席に促しました。それでも席に座ろうとしないので、私が彼の椅子に座り、膝の上に彼を座らせました。意外なことに、彼はおとなしく私の膝の上に座って、そのまま5分くらいジーッとしていました。そして5分後「もう作文書くよ」と言い、本当に鉛筆を握り字を書き始めたのです。

私が「もう膝から降りる?」と聞くと「このままがいい」と言うので、その時間は最後まで膝の上に彼を乗せたまま、過ごしました。

実は、担任から前に彼の事情を聞いていたのです。彼の家では赤ちゃんが生まれたばかりでした。お母さんに甘えたいけど甘えられない不満が、彼の乱暴な言動の原因だったのです。

その作文の件以降、A君の言動は落ち着きを取り戻しました。学年の先生方もA君への対応を見直してくれ、温かい声かけが増えました。

 

そんなA君との一件で、私の心境は大きく変わりました。

ついこの前まで「ただのお母さん」だった私にも、出来ることがある。お母さんとしての経験が、学校の中で役に立つ場面もある。学校の中で、苦しい思いをしている子どもに、ピンポイントで寄り添い、手助けをしてあげる支援員の仕事は、昔、自分が目指していた「子ども達の心のキズを癒やす」職と通じるではないか。

 

それから10年以上経ちました。

勤務した学校は、小学校2校、中学校2校になりました。大勢の子ども達と先生方と出会いました。

小学校では、若い先生のクラスに入って、と頼まれることが多く、副担任のように子ども達と接しました。個別支援では、ひらがなが書けない、漢字が書けない、足し算が分からない、そんな子ども達に、なるべく楽しく勉強してもらえるように、工夫を続けました。

中学校では、乱暴な子への対応は、頼まれることはありません。小学校からずっと勉強で苦労してきた子に「どうやったら自信を取り戻してもらえるかな?」と考え続ける毎日です。校内では笑顔を絶やさず、子ども達にも先生方にもホッとしてもらえる存在でありたいと思っています。

時にはカウンセラーのように話を聞き、時には養護教諭のように身体を気づかう。それは家庭でお母さんとしてやってきた普通のことでした。我が子が今、学校で困っているとしたら、親として、どんな支援をしてあげてほしいか?と考えながら、目の前の子の手助けをしています。

ベースは優しさ。

その上に、親としての経験と、教育者としての経験。これまでの私の全てを注ぎ込むのみです。

だから私はこの仕事が大好きです。